Report16<NEW TECHNOLOGY>
デジタル空間の立体マップで没入体験を
~東京ケーブルネットワーク『360°ビューイング』~
東京都荒川区。昭和のたたずまいを感じる銭湯、野崎浴場。この銭湯はもうここにはない。3年前の2023年に69年の歴史に幕をおろした。しかし、サーバー上のデジタル空間内にこの銭湯は存在する。画面内の入口から中に入っていくと、待合場から脱衣所、もちろん洗い場、さらには湯船の中にまで自由に視点を移動させることができ、360度周囲を見渡すことができる。単なるパノラマ写真のつなぎ合わせではなく、CGの実寸データにもとづいた映像はあたかも実際にそこに入り込んだかのような没入感がある。ここに日々通い、一日の疲れを癒していた人たちには、かつての日々が蘇ることであろう。東京ケーブルネットワーク社が提供するサービス「360°ビューイング」のコンテンツの一つである。
現在、ケーブルテレビ事業者は従来の目玉であった多チャンネルサービスの利用が減少傾向にあり、生き残りをかけて様々な放送外事業に力を入れ始めている。ケーブルテレビのインフラを活かしたセキュリティサービスや、地域生活支援など、そのエリアに根ざした事業は多岐にわたるが、その中でもこのサービスはユニークである。今回はこのサービスに取り組んでいる同社の遠藤昌男常務執行役員、松尾遼事業開発室長、山上寛之事業開発室係長にお話を伺った。(編集部)


単なるパノラマ写真ではない
3Dデータにもとづく臨場感
東京ケーブルネットワーク社(以下、TCN)は都内でも中心地にあたる、文京区、千代田区、荒川区、にサービスを提供している。エリア自体は山の手から下町まで様々な街をカバーしているが、周辺には住宅だけでなく企業が多い。同社の社屋もグループ会社の東京ドームのすぐそばにある。こうした土地柄ゆえ、事業としてはかねてより対企業販売に力を入れてきている。その中で2021年から「360°ビューイング」サービスの提供を開始した。現在までに冒頭に述べた文化的な施設のアーカイブや、旅館、博物館、イベントホール、商業施設など様々な建物・施設を対象としたサービスを行っている。では360°ビューイングとは具体的にはどのようなものか。同事業の初期にサービスを提供した老舗旅館の鳳明館を例に説明していこう。

鳳明館は木造および鉄筋で本館および別館2館からなり、登録有形文化財にも指定されている大型旅館。1898年築、震災や空襲を耐え抜き、120年以上の歴史を刻んできた。修学旅行生や様々な団体客、また、有名作家の作品執筆にも使われてきた。しかしコロナ禍で修学旅行やインバウンドが見込めず、将来の万が一に備え、後世にこの姿を残す方法はないか、ということで同サービスの提供となった。
360°ビューイングは写真でも分かるように通常の平面のマップの代わりにドールハウスビューと呼ばれる立体マップと、実際にこの中に視点が入り込むことができるメイン画面などで構成される。いったん視点を旅館内に移せば、各ビューポイントで周囲360°を見渡すことができ、さらにズームアップすればまるで自分が移動して近寄っている感覚だ。ビューポイントは建物内の構造に応じて、視点移動がスムーズになるように設定されている。いわゆるストリートビューのようなパノラマ写真の単なるつなぎ合わせと違うのは、各ポイントでは画像を360°撮影しているだけでなく、カメラから壁や物の距離を随時計測し、各ポイントで取得したデータを結合させて部屋内の立体データ(点群データ)を構成していることである。このデータにもとづいて撮影した写真を貼り付け、立体的な仮想空間を作り上げている。このため、部屋内が単なる立方体ではなく、複雑な形状をしていたり、家具などがあった場合にも、違和感なく視点を移動させたり回り込んだりすることができる。さらにVRにも対応しており、その際の没入感や臨場感は単なるパノラマ写真結合の比ではない。


使用しているのは米国システムメーカーの特殊なカメラと操作用のタブレット。撮影時に必要なものはこれのみのシンプルな構成だ。タブレットによる遠隔操作で各ビューポイントを撮影し、データはアップロード後ただちに同メーカーのサーバー上で解析、結合される。部分的な立体データは、最終的には施設全体の立体マップとして完成する。
鳳明館は、その後、経営の目途が立ち、まずはデイユースからだが、現在も営業を続けている。当初は施設のアーカイブとしてコンテンツを作成したが、営業が存続することで、違う活用方法が生まれることとなった。


様々なシミュレーションのツールとしての活用
鳳明館はその趣きのある瀟洒な佇まいから、映画やドラマ撮影の候補地に上げられることがある。その際に従来であれば、まずスタッフが直接来訪して、現地ロケハンとなるのだが、これを360°ビューイングをあらかじめ見てもらっておくことで、このロケハン対応が大幅に効率化された。旅館内の様々なスペースにおいて、実寸データがあらかじめ取得できていることも大きい。場所を提供する側も撮影スタッフ側も無駄がなくなり、ロケの採用率も上がったという。
こうしたシミュレーションとしての活用は、ほかにも多い。東京ドームにおいては球場内を360°ビューイングによって閲覧することができる。ここでは各座席から実際に球場内を見たときの様子を体感することができる。例えば、試合やイベントのチケット購入者が事前に自分のシートからの眺めを確認することが可能だ。事業開発室長松尾氏によれば、「サーバーへのアクセスが急に増える日があって、確認してみると、イベントなどの前日だったりします」。また、東京ドームでは年間シートを企業などに向けて営業しているのだが、球場の稼働日などで現地視察ができない場合にも、360°ビューイングを活用することで、商談機会・成約も増えているという。


また、劇場などでは、楽屋やバックヤードの確認、都内のホテルでは、従業員の研修にも活用されている。「自社開発によるオプションサービスも用意しています。部屋内にテーブルなどの3Dオブジェクトを配置して、ホテルのバンケットのレイアウトのシミュレーションにも活用していただけます」(松尾氏)。
シミュレーションは商業施設だけではない。避難所に指定されている小学校では、防災シミュレーションとして、体育館にどのようにテントを配置するか、また、実際に体験することで避難経路の確認にも利用可能だ。
意外な活用事例もある。「建てたばかりの施設・建物を撮影して欲しいという依頼があります。まだ、使用する前の一番きれいな状態を残して保存しておきたいというニーズもあるようです」(松尾氏)。事業を始めたころには想定していなかったニーズも出てきているようだ。
機材はコンパクトで扱いやすいが経験値も必要
TCNで360°ビューイングの事業が開始されたのは約5年半前のこと。同社はかねてから映像制作のサービスを行ってきている。松尾氏は映像制作のディレクターを担当していたが、かつて「とにかく新しいことをやる」という目標で設立された未来創造部という部門に異動となった。松尾氏は360度パノラマ映像をやり始めたが、その際に「実際に建物の中に入っていけたら面白いのではないか」と感じ、リサーチをしている中で、今回のシステムを採用した事業へと展開していったのだという。
撮影に関しては、機材がコンパクトなことで移動用の車両も必要なく、機材を担いで電車などの交通機関での移動も手軽にでき、機動力も高い。現在、企画・営業・撮影まで事業開発室係長山上氏とわずか2人のスタッフで事業をまかなっている。
このシンプルなシステムがあれば、すぐに事業が成り立つかといえば、そう簡単でもない。例えば、撮影ではある程度の現場の情報は仕入れていくが、基本的には出向いたその場で、必要なビューポイントを考えながら、撮影していく。この辺りは経験値が必要なところでもある。さらに深いノウハウがかなり必要となる場面がある。「空間によっては、撮影ポイント間でデータに整合性が取れていないとエラーになってしまいます。実はエラーになればまだいいのですが、もっと問題なのは、システムがエラーを返して来ないにもかかわらず、データが微妙にズレていることです」。
撮影条件によっては誤認識を起こすことがあるが、エラーにはならないケースもある。システムがエラーを返さなければ、そのまま作業自体は進めて行くことができてしまう。この微細なズレの積み重ねが響いてくる。「途中で何かおかしいなと感じることがあります。このズレに気づかずに立体マップを構成してしまうと、マップ自体は完成しても、全体として歪みが生じてしまう。小さな部屋や施設内などであればいいのですが、東京ドームのような大きな施設の場合、最終的に全体が崩れた形になってしまうなどといったことが起こり得ます」。このズレに気づけるかどうかが正確なコンテンツを仕上げられるかどうかの鍵になるようだ。
ビル屋上のデジタルサイネージを仮想空間で再現
360°ビューイングの一番新しい活用法としてデジタルサイネージを仮想空間内で表示するサービスがある。例えば、街なか、特にビルの上方部などにデジタルサイネージを設置する場合、それが下の路上を行き交う人が、どのように見えているかをあらかじめ確認しておきたい。そこで360°ビューイング内で仮想的にデジタルサイネージを表示し、地上などの様々な位置からの見え方をシミュレートすることで、広告の内容にフォードバックすることが可能だ。
「特にサイネージの形状がL字型(表面と側面の2面にまたがって表示するような形状)など特殊な場合、広告の出稿側としては、様々な角度から実際にどのように視認できるかを確認したい。それをシミュレーションすることが可能です」(松尾氏)。
この場合、実際に街なかに出て路上で撮影を行った。その際、人や車など動いているものが映り込むと各撮影ポイントのデータの連続性が失われ、エラーとなってしまう。そうしたことを避けるためになるべく人通りが少ない早朝などの僅かな時間に撮影を行ったのだという。なお、同社ではこのサービスを特許出願中である。
様々な事業展開とその先にあるゴール
同事業はTCNエリア内にとどまらず、全国展開している。かなり遠くの県まで赴くことがあるという。同サービスは基本的にはサーバー連動なので、360°ビューイングを視聴するにはWEBサイト経由でクラウドサーバーへのアクセスが必要となる。データを切り離してパッケージ化することはできない。
ただし、取得した点群データをダウンロードすることはできるので、購入したユーザーがそれをアレンジして活用することは可能だ。例えば購入したユーザーが3Dプリンターなどを使って立体のオブジェクトを作ることもできる。360°ビューイングサービスはユーザー次第でまだまだ様々な活用法がありそうだ。しかし、松尾氏は「ゴールはまだ先にあります」という。
実は現在、国土交通省が主体となり、全国の3D都市モデルの作製を行う「PLATEAU(プラトー)」というプロジェクトがある。モデルデータを記述する「City GML(Geography Markup Language)」では、表現レベルについてLOD(Level of Details)1~4が設定されている。ごく簡単に行ってしまえば1~3までは、平面の地図に建物の形状などの立体データを持たせ、さらに屋根や壁面の形状を組み合わせた立体地図である。LOD4は建物内部の構造や部屋の構成までも記述したレベルである。
現在プラトーで行っているのは、このLOD3まで。つまり、このデータでは仮想空間内で好きな場所に行くことはできるが、中に入ることはできない。せっかく行っても外観のみで、お楽しみはお預けである。このデータにLOD4のデータが付加されていけば、好きな場所に行って建物内部を体感することができる。まさに360°ビューイングはこの部分を担いデジタルツインを実現するものである。一つ一つのデータが結合し、やがては大きな仮想空間が出来上がる。松尾氏は関係先とかかわりあう中で「『ワクワクする仕事ですね』と言っていただけることが多いです」という。子供のころによくブロックを積み重ねて遊んだことを思い出した。

2人体制の部署のため、コンテンツ制作はもちろん、企画、営業ほか全てを2人で行っている。

